【10】PLAYZONE '95 KING & JOKER
Playzone '95「KING & JOKER~映画界の夢と情熱 」
上演) 上演期間は1995年7月7日 〜7月30日(青山劇場)、8月9日〜8月13日(フェスティバルホール)。計40公演。通算400公演達成。
〔第一幕〕
Overture(作曲:ボブ佐久間、編曲: 南 安雄)
色褪せた思い出(BGM)(作曲:ボブ佐久間、編曲: 南 安雄)
シネマ・パラダイス(作詞:森 浩美、作・編曲:ボブ佐久間)
グロッキーとクッキー(BGM)(作曲:ボブ佐久間、編曲: 藤野浩一)
グロッキーとクッキー(作詞:森 浩美、作・編曲:ボブ佐久間)(錦織・東山)
見果てぬ夢を(結城バージョン)(作詞:森 浩美、作曲:ボブ佐久間、編曲: 藤野浩一)(植草)
EVER DREAM(作詞:森 浩美、作曲:林田健司、編曲:新川 博)(東山)→'90 MASK
All The World Is A Stage(作詞:森 浩美・小倉めぐみ、作曲:林田健司、編曲:新川 博)(東山)→'90 MASK
二代目のブルース(BGM)(作・編曲:ボブ佐久間)
見果てぬ夢を(チャンプバージョン)(作詞:森 浩美、作・編曲:ボブ佐久間)(錦織)
Witches Party(作曲 :石田勝範、編曲: 石田勝範・長谷川雅大)→'90 MASK
グロッキーとクッキー(作詞:森 浩美、作・編曲:ボブ佐久間)(植草・東山→錦織・東山)
KING & JOKER(作詞:森 浩美、作・編曲:ボブ佐久間)
〔第二幕〕
New Cinema Paradise(作詞:森 浩美、作曲:ボブ佐久間、編曲: 石田勝範)(忍者・井ノ原)
愛はもう始まって(作詞:森 浩美、作曲:ボブ佐久間、編曲: 南 安雄)(東山・リサ)
色あせた思い出 (作詞:森 浩美、作曲:ボブ佐久間、編曲: 南 安雄)(錦織)→'91 SHOCKの「あの日…」
Super Star(作詞: 森泉博行・小倉めぐみ、作曲: 長岡成貢、編曲:長谷川雅大)(植草)→'90 MASK
死への招待(BGM)(作・編曲: 石田勝範)
どーしようもない( 作詞:松井 五郎、 作曲:荒木 真樹彦、編曲:長谷川雅大)(original: 田原俊彦)(東山・リサ)→'89 Again
見果てぬ夢を(早乙女・結城・All Castバージョン)(作詞:森 浩美、作曲:ボブ佐久間、編曲:藤野浩一)(東山・植草、他)
カーテンコール(作詞:森 浩美、作曲:ボブ佐久間、編曲: 石田勝範)
〔第三幕~SHOW TIME~〕
ダイヤモンド・アイズ
What's Your Name?
レイニー・エクスプレス
まいったネ 今夜
君だけに
ストーリー)
VHS/LD『PLAYZONE'95 KING & JOKER』(1995年10月4日/1997年11月22日に廉価版VHS再発)収録時間: 2時間28分
DVD『少年隊 35th Anniversary PLAYZONE BOX 1986-2008』(2020年12月12日)収録時間:2時間28分
キャスト)
少年隊: 錦織一清
正木慎也
柳沢 超
長野 博
井ノ原快彦
松山康志郎
新藤明夫
京本真由子
長田マキ
内山奈緒美
井上仁司
斉木としや
中本雅敏
佐々木信彦
本山新之助
高木伸一郎
広崎うらん
駒形世伊子
後藤未雪
花井利佳子
石黒恵美
北林優香
渡辺聡美
スタッフ)
原案:少年隊
脚本・演出:錦織一清
監修:ジャニー喜多川
音楽監督:ボブ佐久間
作詞:森 浩美
美術:伊藤保恵
照明:勝柴次郎
振付:前田清美、藤井真梨子、阿部雄三
衣装:宮本宜子
音響:今村太志
演出補・舞台監督:菅原秀夫
企画:安倍 寧
協力:こどもの城 青山劇場、フェスティバルホール
____________________________________________
ついに10作目、『KING & JOKER』!!
最も楽しみにしていた作品ながら、これまでの本人役もの以上に「本人」の運命を彷彿とさせる内容に、少々打ちのめされ、かつ、思い入れの多い方が多そうなので、どう書いていいやら、と、だいぶ時間がかかってしまいました。
1995年。
少年隊デビュー10周年、Playzoneも10周年。まだ少年隊を知って10ヶ月ですが、順にプレゾンを見てきたので、私なりに感無量です。
苦労がにじんでいた前年の『Moon』から1年、それぞれに活躍しながら、かっちゃんには長男、裕太君が生まれ、10周年ということで3人でファンとNYに行っちゃたりしてたようです(Playzone中の映像はその時撮影されたもの)。なにそれもうなんなんだよ羨ましすぎる。
そして迎えた10thの Playzoneは、満を持しての「脚本・演出:錦織一清」。
ゲスト俳優には、内海賢三と小野武彦。
内海さんといえばDr.スランプアラレちゃんの則巻千兵衛など、声優さんとしてあまりに耳なじみがあるので、彼がしゃべるたびに、誰だっけ…?と脳が記憶を検索し始める現象…
本作、サントラも出して欲しかったところですが、ジャニーさんからは10thということで過去作を取り入れるように指示があったようで、過去曲がたくさん使われていて新しいサントラにしにくかったのか、出てません…。もったいない!!メイン曲の「見果てぬ夢」は35th 限定版ベストには収録されたけれど。ボブ佐久間×少年隊ってアルバム出してほしい。
『KING & JOKER』。
まずはこれまでで最も「ミュージカル」だ!!!!という印象でした。
そしてヒガシがとても良かった。
これまでのプレゾンのヒガシの中で一番良かった。
つまり「ニッキが演出したヒガシ」がとても良かった。
ソロだけでなく、ニッキとヒガシのペアダンスが楽しめるのが最高。
早乙女と結城が懐かしがって「グロッキーとクッキー」を踊っているうちに、ぼんやりとチャンプが背後で踊りだし、だんだんチャンプと早乙女のペアダンスになっていく演出、最高。
ショータイムでのかっちゃんがやたら嬉しそうで楽しそうなのも最高。
『KING & JOKER』の舞台は「映画界」。
「映画」には誕生日があり、それはリュミエール兄弟が初めてフランスで観客を集めて有料で映画(46秒間の)『工場の出口』を公開した1895年12月28日とされている。
そう、このPlayzone 10周年の1995年は、ちょうど映画誕生100周年の年だったのでした。映画界を舞台にしたのはおそらくこれが一番大きな理由でしょう。本作はハリウッドというネオンがあったり、映像がNYロケだったりするものの、「早乙女」や「結城」というように役名は日本人名だったり、「いつ・どこ」が舞台なのか、明確には設定されていない。
始まりは映像から。
NYのビルの屋上で「ラストシーン」を撮っている。カメラは1台。カメラテストの声がかかる様子から、本番の撮影も同じカメラ。チャンプが映画の枠を飛び出してしまうまでワンカット。一つの目が見つめ続けた映像。
劇中、何度も繰り返されるラストシーンのセリフ。
人は生まれた時から、
握られている小さな手のひらに無数の夢を持ち旅をしている。
光輝く夢、名もなく消える夢。
そして、いつかはこの手の中から、全てこぼれ落ちていく。
たとえ、それが運命だとしても見果てぬ夢を求めて、
私は歩き続ける。
『KING & JOKER』は、このセリフがエディ、チャンプそして早乙女に引き継がれていった、という流れが大枠のストーリーとなっている。
映像で提示された時点から少し戻ったところからステージの幕が開がる。
映画界の勝者として君臨しているスター、「チャンプ・オブ・シネマ」の登場。大きく開いた脚でしっかと立ち、上方を向いたニッキ。その目はここではないどこか遠くを見つめているかのよう。
映画製作を題材にした作品においては、何らかの劇中劇ならぬ「劇中映画」が作られるもので、この『KING & JOKER』の中では『グロッキーとクロッキーのヒーローはお人好し』という映画が撮影中。この映画の完成形を我々は見ることはできない(それを全部見せたのが『カメラを止めるな!』)。
確かに「未完の映画」ほど面白いものはないのだけれど(我々の豊かな想像力がいくらでも補うので)、この「劇中映画」の詳細や、他方、チャンプが目指していた理想の映画像もよくわからない。Playzone自体の観客にとって楽しめる「撮影シーン」がステージで提供できたら、どんな劇中映画にしても良かったのだろう。ただ、おそらくは「チャップリン」という人名を出したいがために、劇中映画はスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)のミュージカルとして登場する。
傘を使って踊り歌うニ人組み、「グロッキーとクッキー」。
軽やかなニッキは、さすがスラップスティックな動きもとても上手い!
『KING & JOKER』になぜチャップリンの名前が出てくるかを、蛇足ながら少し説明すると、チャップリンやキートン、ローレル&ハーディーといった1910年代からハリウッドの映画界の無声映画で活躍していた喜劇俳優たちは、もともとはボードヴィルの出身で、そもそも言葉を使わなくてもドタバタの身振りだけで客を沸かせる芸を持っていた芸人たち。1929年頃から音が付いた「トーキー映画」が主流になり、映画界の体制が大きく変わった後も、チャップリンは自分の映画会社を固持。監督・脚本・制作・音楽・主演のすべてをこなし、ただ笑わせるだけでなく、社会批判とヒューマニティにこだわった作品を作ったことで評価されている。本作で「チャップリンはただのコメディアンではなく芸術家だった」というセリフがあるように、チャップリンは確かに「ただのコメディアン」とは一線を画していた。チャンプというキャラクターが、俳優でありながら、映画の作り手としての理想を持っているということを示すには、日本の時代劇スターなど、他のジャンルでは分かりやすい例がなかったため、アメリカのコメディ映画を下敷きにした「グロッキーとクッキー」が生み出されたのでは?と推測。
とはいえ、私は完全バスター・キートン派なので、個人的にはこの頃のニッキは、チャップリンにならないといけないと思い込んでいたキートンなんじゃないかな、と思っているのですが、ともかくキートンというのはとにかく身体能力の長けた人で、いつも困ったような顔をした美男。その監督・主演作に教訓的テーマはなく、映画技術の探求にこだわった「面白い」作品を目指しました。チャップリンのように上手く名声を維持できていない時期もあったものの、再評価後は、チャップリンと双璧をなす偉業者と見なされております。→キートンが気になったのでちょっと見てみる。
そんな映画100周年の歴史を背負って、『KING & JOKER』に登場した「グロッキーとクッキー」は、チャンプ(ニッキ)と早乙女(ヒガシ)のどっちがグロッキーでどっちがクッキーか、演じる本人も区別できていない、というギャグを挟んで、客席に笑いを起こす。 可愛いクッキーという名に対し、「グラグラとふらつく」という意味のある名前グロッキー(日本だとむしろ「グロテスク」という語が連想されてそう)だが、演じる二人にとっては、自分がどちらでも構わない、入れ替え可能な役だった。
ところで、チャンプと結城の間では、何かを決める時、トランプカードで勝負する習慣があった。ある日、楽屋でチャンプは「ジョーカー」をひく。映画界のキングだったチャンプはいつのまにか、「ジョーカー」になっていることが明示されるシーン。
「グロッキーとクッキー」、「キングとジョーカー」。
これらは「役」であり「仮面」。演者は入れ替え可能である。
何にでもなれ、未知数の可能性を持ったジョーカーの地位に居たのは、そもそもは早乙女だったのが、時代が変わり、早乙女が「キング」、そしてチャンプが「ジョーカー」になったという力関係の変化が物語の柱である。ならばタイトルの「キング」と「ジョーカー」を結んでいる「&」は、脚本家・結城だろう。
少年隊でニッキとヒガシを繋ぎ続ける、かっちゃん。
間を取り持つかっちゃんだが、彼自身の見せ場は、後半の墓堀りと、過去曲「Super Star」のタップダンス。ダンス後、なんで金属のついた靴を履いているんだ?と自問自答するシーンがあり、ここが可愛くて声出して笑ってしまった。
アリスのようなトランプの群舞がゴージャスな最大のダンスシーンでは、ニッキとヒガシがいわゆる「シンメ」で踊り歌うのに対し、かっちゃんがコーラスで二人を繋ぎ、支えている。
しかしやはり本作はヒガシの魅力にスポットライトが当たったように感じる。 ニッキがスポットライトを当てたヒガシ。
「キング」のダンス。
チャンプの没落と早乙女の興隆というのは、少年隊の世間的扱いにおいてだんだんニッキよりヒガシがメインとされていったことを思い出されてしまうし、今年になるまで長く不遇の時を過ごしてきた少年隊ファンには、心に刺さる物語だったのでは、と想像する。しかし、善良な小市民を演じ続けてきたというチャンプに対し、マフィアの二代目という特別なキャラクターを演じる早乙女。王道のブロードウェイミュージカルのような華麗な踊りを見せるチャンプに対し、野心的な踊りを見せる早乙女。
チャンプと早乙女、ニッキとヒガシ。
もともと全く異なる駒である二人は、その戦い方も全く違ったはずだ。
この繰り返される「ワインついでくれ」のギャグはなんなんだろう…
さて、結城の伝記では、チャンプは「夢の旅人」として語られている。本「夢と情熱」に勝るものはないとして、「見果てぬ夢」を求めて歩き続けたことを讃えられるチャンプ。しかし彼の「夢」とはいったい何だったのか。
「夢」などという言葉を敢えて問い直す野暮は承知で、再度、「ラストシーン」のセリフを見てみる。
人は生まれた時から、
握られている小さな手のひらに無数の夢を持ち旅をしている。
光輝く夢、名もなく消える夢。
そして、いつかはこの手の中から、全てこぼれ落ちていく。
たとえ、それが運命だとしても見果てぬ夢を求めて、
私は歩き続ける。
一般論として「人は」と始まるこのセリフは、「私は」という主語に変わって終わる。誰もが持っている夢を、自分は「全て」失う運命にあることに気付きながら、それでも歩き続ける、と宣言した直後に生の歩みを止めたチャンプ…。
そもそも「夢」とは、睡眠時に人が見る映像のこと。映画はこの「夢」と深い関係を持っている。自分が能動的にイメージしていない映像を、受動的に見るという行為は、夢も映画も同じである。ただし睡眠時の夢は、夢という自覚がないまま、一人でそれを見ているのに対し、映画は非現実の「夢」であることを意識した複数の観客によって見られるものである。チャンプは「俺にしか作れない映画」を作りたいと語っていた。その映画がどんなものなのか、具体的には全く示されない。しかしそれは「その辺のやつらには奪ってもらいたくなかった」という「誰にも負けない一流の夢」なのだと言う。
なぜチャンプにとって、夢=映画なのか。
チャンプは「過去はすでに死んだもの」、「未来は頭の中の作り物にすぎない」と語っていた。つまり、肝心なのは「現在」なのだ。その現在地点において「現実」ではない、今、ここにはないもの、それが「夢」である。そして映画とは、個人の「夢」を協働で創造して目に見える形にし、現時点・現地点において、皆で共有することができる装置である。
もしこの『KING & JOKER』が映画だったなら、私は「観客」の不在を脚本の欠点として指摘すると思う。せっかく作られた映画が、観客にウケているシーンがないのは、閉じた世界で起こった、我々とは関係ない話に思えてしまいそうなので。しかしこれは”Playzone”だ。劇場にいる観客たちの存在が大前提として作られたミュージカル。劇中で「映画」と呼ばれている「夢」は、この劇場で生で観客が体験する「Playzone」という舞台そのものでもあるだろう。
脚本家ニッキは、きっととても悩んだだろうけれど、チャンプの自死について、「なぜ死を選んだのか?」というような内面にはあまり踏み込まずに、その「事件」を受けた周りの変化を描いたのは正解だったと思う。確かにチャンプの落ち着き過ぎの自死直前の様子や、自伝の結末を面白くしてやるというほのめかしは、気持ちよくなかったけれど、悩む早乙女を結城の言葉が導き、早乙女があのラストのセリフを述べるときには、彼なら本当に「見果てぬ夢を求めて」「歩き続け」てくれるだろう、ということが感じられる空気が劇場に満ちているのが感じられた。早乙女自身の心の変化を述べるセリフはなかったけれど、この大団円の空気に持って行った舞台の力が素晴らしい。
「♪夢を創ろう!大きな夢を」、「素敵な夢をみさせてあげよう」(「シネマパラダイス」より)という歌で始まった本作は、「Beautiful dreamer, Let's play with us 終わりはこない」(「見果てぬ夢」より)という歌で終わる。この歌詞は、少年隊の「夢」を現存させる「Playzone」を表しているだろう。
さて『KING & JOKER』、最初はハリウッドの映画スタジオをイメージしながら見ていたけれど、DVDを4回ほど観たところでやっと気づきました。これ、京都東映撮影所をイメージした方がいいのでは?ニッキが念頭に置いていたのは、シンプルに『蒲田行進曲』じゃない?と。
1982年公開の映画『蒲田行進曲』のことが好き過ぎて、何度も何度も見たせいでセリフまで覚えていたというニッキ。彼の「映画についての作品(映画)」のイメージで一番の核にあったのは間違いなく『蒲田行進曲』だったでしょう。ヤスの「コレがコレなもんで」というセリフとジェスチャーはしっかり『KING & JOKER』にも登場していたし、大部屋俳優・スタントマンの不遇エピソードも挟まれていた。チャンプというキャラクター作りに関しても、やはりどこか「銀ちゃん」が念頭にあったのでは。この4年後にニッキが実際に銀ちゃんを舞台で演じたというのは、この『KING & JOKER』を踏まえると、さらに感慨深くなりました。
とにかくニッキとヒガシ、また一緒に踊ってほしい!
かっちゃんと我々、泣いて喜ぶから。!!!
6月になって規約が変わったらしく、Youtubeから、J事務所からソフトとして出た作品がごっそりなくなってしまいました。
J事務所、再販・配信するか、ほんとに考えて!!閉じ込めないで~~